めまいといっても、その原因と症状は大きく異なります。原因は耳(内耳)の障害、脳の病気によるもの、ストレスや血圧の変動によるものと大きく3つに分かれます。
まずはめまいの程度や状態、併発する症状などによって病因を明らかにする必要があります。
めまいは主に回転性めまい、浮動性めまい、立ちくらみ(眼前暗黒感)の3つの症状にわかれます。
◎回転性めまい《グルグルしためまい》
これらの症状は内耳性(耳からの)めまいが多い。
◎浮動性めまい
《症状》フラフラしためまい
《原因》血液の循環が悪くなったとき、血圧の急激な変化等が内耳に影響を与えたときなど。
◎立ちくらみ(眼前暗黒感)
《症状》クラーとしためまい。目の前が真っ暗になる
《原因》血圧の急激な低下や、血管の弾力性の低下など。子どもの頃から乗り物酔い、頭痛がある。母娘間の遺伝、几帳面な人に多い。
※以上のめまいに激しい頭痛や、しびれのある神経障害や意識障害などの症状が伴えば、脳出血などの脳血管障害が疑われます。
「めまいで最も代表的な良性発作性頭位めまい症は、内耳で浮遊している耳石を元の位置に戻すエプリー法(頭を一定の位置に動かす)を一度行うだけで、約90%以上は症状が軽減しています。メニエール病、反復性聴力障害は利尿剤を用いて約80%以上が症状の軽減が見られます。
原因不明のめまいについてはなるべく病因を特定させることが大切です。 そのため、『何か変だなぁ』と思われる症状があれば、ただちにMRIやMRAなどの検査を受けて、重大な病気が隠れていないか調べてください。
めまいを起こしやすい人は普段からバランスのとれた食事をとり、十分な睡眠、適度な運動、ストレスの軽減を心がけることが大切です。さらにCAT(コーヒー、アルコール、タバコ)は控えめに! また耳石の動きに慣れるためのローリング法も有効です。 毎日寝る前に1回行うとめまいや車酔いしやすい方に有効ですので是非試してみて下さい。
いつも患者さんに言うことですが、例えば「吐血した」とします。「止血剤」を投与されて満足しますか?
原因を知りたいはずです。それと同様に「めまい」で「抗めまい剤」を飲むことだけで満足しないでください。
微細な症状を見逃さないように注意し、それに対する検査・治療を受けてください。内耳の耳石障害によって発病する良性発作性頭位眩暈症の治療は、頭の位置を変換し、浮遊する耳石を元の位置に返す方法(Epley法)で治すことが可能です。
基本的に、「挨拶ができること」である。
今更とお思いでしょうが、まともな挨拶ができる人は、極めて少ないと思います。これは、24歳、25歳の大人に言っても、直しようがありません。親の躾の問題です。少し手遅れの感じであるが、幼稚園ではできていたのだと思いなおして、敢えて挨拶を指導しています。
報告、連絡、相談をすること。
疑問に思うこと、分からないことは必ず聞くこと。繊細な目で観察することである。
分からないことが分からないのである。
研修医を受け入れる以前に、優秀な人材をいかに育てるべきかを考えていくべきだと思います。それなりの性格であれば、育つもので、頭(記憶力)が良くても性格が悪ければ、病院のイメージダウンになります。
人を評価する際は、自分の能力を基準にしがちである。だから、自分の長所としている点について、他人の能力が少しでも自分より劣っていると、非常に低く評価し、自分より優れていると、非常に高く評価する傾向がある(掘田 力)と言われています。
問題は、研修医を指導する時、実技について、どれだけ知っているかではなく、どれだけ伸びるかであると思う。例えば5人の新人入局者が入る時、「努力次第で、1年たつと差が出ますよ。1年でどれだけ伸びるかによって差が出ます。2年、3年以上になると益々差が出てきますから、心して頑張って下さい」と指導したことがある。必ず差が出るのは致し方ない。
しかし、無能力な、堕落した権力に溺れるような、威張ったり、叱るだけの上司に評価されるとたまったものではない。正当な評価がなされない。イエスマンだけ重宝するようである。こんな上司は、早く辞めてもらいたいと願うのみである。
勤務医は、病院長の叱咤激励にこたえながら、病院が黒字経営になるように努力している。病院経営は、人材によるところが一番で、患者の信頼を勝ちとることが大事である。患者に親切で、技術・技量がよくて、一生懸命頑張る神様のような医者はそんなにいるものではない。
しかし、勤務医の大部分は、できるだけ手抜きをしていかに楽をするかを考える。昔のように、勤務医である時に、自分の患者を集めて、その後開業するというパターンが多かった時に比べて、開業して頑張ればなんとかなるだろうと考える人と、勤務医でないとやれない仕事をしたい、一生懸命頑張りたいと考える人と、今更開業しても大変だから勤務医のままで定年までのんびりと過ごしたいと考える人とに分かれるようである。なんとかなるだろうという考え方である。
できの悪い勤務医は、「自分に患者の信頼がないのは、病院が医療機械を買ってくれないから患者の検査、診察が出来ない」と思い込んでいる。実績を上げてから文句を言うべきで、そのような勤務医に医療機械ばかり与えると、雪だるま式に赤字が増えるばかりであるし、医療機械を機能させるほどの患者は決して集まってこないものである。
勤務の態度についても同様で、週休5日制となって、1週間に1~2日外来を診て、残りは手術、検査をしていますと言っても、完全に手抜き状態で勤務する。たまったものではない。
そのような上司が研修医に「しっかり勉強してください」と言っても、聴く訳がないと思うのであります。手術をさせても、できる人はでき、できない人はできないと、大概に、はっきりしています。時間をかければ上手になるというものではありません。時間外ばかり請求されます。
信頼される勤務医になれる努力は日常生活の一歩一歩の積み重ねが、ものを言うのであって、職場のコーメディカルの人に信頼されることが第一で、職場の人にも信頼されなければ、患者に信頼される訳がないと思うのです。
良いことを言っているからといって、その人が、そのとおりしているとは限らない。けだし、名言である。
耳鼻咽喉科の外来に森信三氏の『しつけの三大原則』を掲げている。外来患者が、気に入れば、書き写して持って帰っておられる。
その言葉のひろがらんことを希望してここに披露したい。
「口でもってしつけるのでなく、自ら、先に、必ず、根気よく、しつづける」ことです。「しつけ」は、お説教ではできない。これが根本原則。
屋敷建夫 1982年5月
You must try everything!1981年ロサンゼルスのHOUSE EAR INSTITUTEに留学した時のことである。MexicoよりきていたFellowship Dr.Luisより励まされた言葉である。Experience is best.と何事にもトライしていく気持ちを持ち続けることに意義があると思う。しかし体験を積んでそれを社会に役立てなければ、自己満足でしかない。
土光敏夫氏のメッセージに「苦労を体験して地力をつける」という指針を目にしたことがある。「地力とは、人間の足腰を鍛え、少々のことではへこたれない本物の力を意味する。地力をつけるには、苦労を体験するのが必須条件という。苦労を知らぬ人間は、端から見れば一にしかみえぬ打撃が十にも二十にも感じられ、そのショックひとつで潰れてしまうことがある。学校秀才型の、いわゆるエリートにその傾向が多くみられる」と結んでいる。
わが病院の増田哲彦院長も「病院経営は人なり」と言うのが口癖で、「若い時、苦労している人は人情味に溢れ、エリートコースを歩んだ人は型にはまりやすい傾向がみられ、自分から進んで物事に対処しようとしない。あまり頭が良すぎて、机上の学問では結果を先に求めて、研究にしても目新しい事も出てこないようである。無人島に置き去りにして各自の生き様をみれば一目瞭然であろう。だから人が大切なんだよ」と言われる。
エネルギーを使う時、肉体的労働と精神的労働とどちらがしんどいかと尋ねられると、人によってさまざまであるが、どちらも同じ量のエネルギーを使うものと言われている。ただ受取る人によってそれをストレスと感じるか、楽しみとして感じるかによって効率が全く異なってくる。体験も興味をもってすれば、例えば、暑い真夏に山登りをするようなもので、汗をかきながらしんどい思いをして頂上を極めた時の爽快感は、いつまでも心地好い記憶として残る。勿論、上から押し付けられ、叩き込まれた体験も、その時はわからなくても、がむしゃらにやっているとなんとか身についているもので、昔の徒弟制度がそうである。現在でもスポーツ選手とコーチの関係、外科系医師の師弟関係等に相通ずるものである。しかしそこには、人それぞれの能力にも関係するが、世にいう名伯楽にめぐりあうことも大切である。
人生計画には経済的基盤、体の健康管理、心の健康が必要とされている。どれが欠けてもうまくいかない。しかし経済的基盤はその時代にマッチしたものであればよしとするか否かは心の問題となる。やはり心の健康、体の健康がまず第一で、その上で自然に経済的基盤がついてくるものと思うのである。心技体が備わってくるまで、体験を積むことが必要であろう。
しかし同じ体験をするにしても人生の節目節目に相当したものであれば、その人にとって、人と人との出会いで人生観が洗い直されるほど鮮烈なものとなるであろう。体験豊富な人のお話は、体験した事を話すため、聞く人には非常にわかりやすく、肩もこらずに興味深く、楽しく、人に感銘を与えてくれる。体験そのものが人間を形作るのであろう。しかし、それには人と人との出会いを大切にしないと仏作って魂入れずの状態になる。
“You must try everything!”は私の座右の銘としている。共感してくれる輪のひろがらんことを。
邦友クリニック 屋敷建夫
山青花欲然 黒住静之著(昭和53年7月20日発行)に、我が師、故黒住静之教授は〔昭和46年5月(親和会誌第10号)〕「トップレベル」と題して、述べられている。
シャンボー(Shambaugh)妙な名前だが、耳鼻科では知らぬ者は無い大家である。正確にいえば耳鼻咽喉科の大家ではない。細分化の激しいアメリカのことだから、耳鼻咽喉科全般に亘って、いわば十種競技的に、あれもこれも一通りはやらねばならぬ日本と違って、この人は耳鼻科の中でも、耳科学、その中でも内耳開窓術専門の大家である。このシャンボーさんが行なった内耳開窓術は3000例、あるいはもっと多いかも知れない。内耳開窓術の対象となる耳硬化症は有色人種には極く少いから、日本にはこの手術をこんなに多くした人はいないが、それはそれとして、これだけ豊な経験をもつこの人が、夏休みが明けて手術を再開する前には、必ず、屍体10体で手術の練習をする。それからでないと、患者の手術はしないのである。アメリカの夏休みは長いのだが、それにしてもこの熟練した人なら休みの期間にそう手が落ちるとは思えないのだけれど、休みの後の屍体実習を鉄則として守っているのには敬服する。
日本じゃ練習しようにも屍体がない。などというのは焦点のボケた議論であって、問題は、物事に立ち向かう心構えである。
解剖学の大家、平沢興教授は、本学の沢野教授の師である。もう引退なさっているのだが、その平沢先生は、学生への講義(第一時限であるのを常としていたそうだが)の前、少なくとも一時間は自室にこもり、端然と机に向かって予習をさる、と、沢野教授から伺った。先生のような方が学生に教える程度の解剖学の予習とは、学問に対する厳しさ、教育に対する熱心。何とももうしあげようもない。我身を顧みて、教師の末席に連なる者として、全く恥ずかしい思いがする。
日仏文化交流プログラムによって、遠路パリから来朝したレヴィは帝国ホテルに荷を置くやいなや集まった報道陣に振り向きもせずピアノに向かった。
そしてややあって、記者の一人が「あなたほどの方が、何もいますぐピアノに・・・」と言ったのに対し、「一日弾かないと自分にわかる。2日弾かないと専門家に、三日弾かないと一般聴衆にわかる」。これがレヴィの答えであった。二十年も前のこの話を私は忘れることが出来ない。
この三人の話に私は付け加える言葉を知らない。トップレベルの人の、自ら律することの厳しさに襟を正して脱帽するののみである。
以上の話は、黒住先生の機嫌の良いときに折に触れて、我々に話されていたことである。
昭和46年の10月頃だったと記憶しているが、黒住教授より「解剖学教室へ、行ってきなさい。沢野教授にお願いしていますから」と、故上田直昭先生と、岡崎英登先生と私の3人で、光源、額帯鏡、手術道具を持って解剖教室におしかけて、たまたま、学生の残した貴重な屍体で手術の練習をさせていただいた。屍体の頭部だけであるが、手術部位の鼻・耳の位置感覚を手術道具で探索させていただいたのが非常に新鮮な記憶で残っている。これが入局後の最初の貴重な解剖実習であった。率先して実習・経験する教えを受けた。その刷り込み現象は、昭和56年になって、たっての希望で、ロサンゼルスのHouse Ear InstituteでTemporal Bone Dissectionの実習をさせていただくことに繋がったていった。
帰国後、Translabyrinthine Approachで聴神経腫瘍摘出術を行うことができた。
時間は遡って、昭和41年、医学部3年生の夏休みに、東洋工業附属病院(現:マツダ病院)でお手伝い(レジスタンス)させていただく機会を与えていただいた。 その当時、故益田弦先生が診療にあたられ、益田先生の患者(頭頚部癌)の手術に、黒住教授が度々来られて、手術場で第二助手をさせていただくかたわら、ザックバランに色々なことを話されていた。益田先生は黒住先生が、広島赤十字病院に勤務されていた時の一番弟子で、大変な師弟愛で結ばれていた。昭和44年に耳鼻咽喉科に入局した時に、当時の事情もかんがみて、益田弦先生の所に預けられた。黒住先生から益田先生を通じて、下記のごとく色々なことを教わりました。
以上のことに関しては、定年退職するまで、守ってきたと自負している。我が人生で、よき師・よき仲間に出会ったことは最高に幸せであった。
阿留辺畿夜宇和:明恵上人 (あるべきようわ:みょうえしょうにん)
1993年(平成5年)頃だったと記憶している。河合隼雄氏の本に出合ったのが最初である。当時は、気分的にもあまり気がのらなかった。日本人好みの「あるがままに」自然に調和する気分かなあ?と考えていた。
河合隼雄氏は、その著作「明恵夢を生きる」で次のように述べておられる。
高山寺に欅づくりの一枚の掛け板が現存している。これは明恵がその弟子たちと共に高山寺に住んでいた時、その生活の上で守らねばならぬ規律( 清規:しんぎ )を記したものであるが、その冒頭に「阿留辺畿夜宇和」と書かれている。
「栂尾(とがのお)明恵上人遺訓(伝記)」に「我に一の明言あり。我は後生 資(たす)からんと申さず。只現世に有るべき様にして有らんと申す也。
聖教の中にも、行ずべき様に行じ、振舞ふべき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世に 左之右之(とてもかくても)あれ、後生 計(はか)り 資(たす)かれと説かれたる聖教は無きなり。仏も、戒を破りて我を見て何か益かあると説き給へり。 仍(よ)りて、阿留辺畿夜宇和と云ふ七字を 持(たも)つべし。是を 持(たも)つを善とす。人のわろきは 態(わざ)とわろき也。過ちにわろきには非ず。悪事をなす者も、善をなすと思はざれども、有るべき様にそむきて、まげて是をなす。此の七字を心に 持(たも)たば、敢えて悪き事有るべからず」ここで、明恵は、「後生を助かろうとしているのでなく、この世に有るべきように有ろうとする」ことが大切であると明言している。
河合隼雄氏は、『明恵が「あるべきように」と言わず「あるべきようは」と言ったところに深い意味があると感じる。自然にやればよいとか、「あるべきように」と考えるのではなく「あるべきようは、とは何か」という問いかけが常に自分に対して問いかけられていると思うのである。』と述べられている。此の言葉を噛み締めながら、年齢と共に、非常に味わいの深い言葉になってきていると感じられるのである。
私なりに解釈して考えると、仏教では、この世界の在り方の事を「法」と言い表している。
「法」という漢字は「さんずいへん」に「去る」と表され、水が流れ去る状態の字で、水は高きから低きに流れるように、在るがままに在ることです。法の流れに逆らっているものが、私達の「心」です。「自分は正しい、自分は間違ったことはしていないと、言う反面、相手の立場になって考えてはじめて法の流れに沿っていくものだ」ということを、明恵上人は「阿留辺畿夜宇和」と掲げておられると感じるのである。
医者の世界でも、同じようなことで「自分は正しい、自分は間違ったことはしていない、ましてや、人に対して、自分や家族が同じ病気だったら、最善の方法はこれで良かったかと考える人や、自分が使った器具・医療廃棄物の整理ができる人、食事の片付けにしても、それらを整理する方々(しまう人、整理する人、ごみを収集する人)のことを良く考えて行動する人」になればと希望するものである。
相手の立場を考えないで、自己中心的で、自分だけは正しいと、相手におしつけるような方は、しつけ以前の問題で、品性のかけらもないと思う。
「あるべきようわ」は「あるがままに」というのでなく、また「あるべきように」でもない。ケースバイケースで「あるべきようは何か」と自問自答をしながら生きようとし、自分とは、人との違いを認めながら相和す心が大切だと思うのである。
私は、河合隼雄氏のように、「阿留辺畿夜宇和」ははっきりと理解出来ないが、さわりの部分でも理解し、行動すれば、最近、全人的医療が唱えられていることに同調できると考える。
屋敷建夫 平成6年5月
20代の夫婦は「愛情」愛があれば、それで充分、30代の夫婦は「希望」まだ相手に希望を託して、40代の夫婦は「忍耐」色々あっても我慢、50代の夫婦は「諦め」こんなはずではなかったがと思い、60代の夫婦は「感謝」ようやくこの気持ち、70代の夫婦は「 労 (いた)わり」老化の始まり、80代の夫婦は「墓参り」と、どちらかといえば夫が亡くなる確率が高いと言われるように、この世の夫婦のドラマと言えます。
永六輔氏によれば、「歳をとったら女房の悪口を言っちゃいけません。ひたすら感謝する。これは愛情じゃありません、生きる知恵です」「人生ね、あてにしちゃいけません。あてになんぞするからガッカリしたり、悩んだりするんです。あてにしちゃいけません。あてにしなきゃ、こんなもんだ、で済むじゃありませんか」といっている。これを女房にあてはめてみると、女房をあてにしちゃいけません。女房を隣りのかみさんか、お手伝いさんか、と思えば、感謝こそすれ、怒鳴ったりすることはできません。女房だから我慢してくれるんです。「ひたすら感謝する」これで世の中まるくおさまるんです。これについて「若い時に感謝すれば、女房は頭にのるだけだ」と反論される方々がおられます。逃げた女房では遅いのです。疲れない夫婦になりたいものです。
とかく、世の中の夫婦は、もっと自分に相応しい相手がいるのではないかと思いながら、適当にこんなもんだろうと結婚し、結婚をしてもお互いにまだ人生やり直せるのではないかと思っているうちに、60代になると、やはりこの女房で良かったと思うようである。しかし、女房殿は、そうは思っていません。定年離婚を待ち構え、これからが。俺が春と決め込んで自由に余暇を謳歌するものです。亭主は、定年になれば、仕事を忘れて、のんびりとしようと計画しても、空論に終わるのが関の山である。せいぜい、中途半端に惚けないように心掛けるべきである。
女房殿は、結婚したての頃は、亭主にベッタリでも、いざとなると、火事場の馬鹿力を出すごとく強いものです。亭主のほうがかえってオドオドして鬱状態になるようである。
「よしんば、それが妻であっても自分の自由になると思うな。自分の自由になるのは、自分だけだ」武者小路実篤。「理想的な良人!そんなものは世の中に存在しない。それは乾いた水、焼いた氷を探すわざににも等しい」平林たい子。どちらも真実である。ゴルフに現を抜かしている時が華である。
「医を学ばんとすれば、まず心を学べ、心正しからざれば、医もまた正しからず」
故佐藤 俊明 (しゅんみょう)氏は、ある医師が参禅の動機に述べた「医を学ばんとすれば、まず心を学べ、心正しからざれば、医もまた正しからず」という命題に、華厳経(大方広仏華厳経)四十巻本の普賢行願品にある。懺悔文 (さんげもん)より
現在語意訳は、「私が過去世から犯してきた諸々の悪業は、皆、無始の(はじめから知らなかった)貧(貧欲・我欲)、瞋(怒り)、癡(知らない・わかろうとしない)によるものです。それは、身・語・意(身体の行い、言葉の行い、心の行い)から生じたものなのです。一切我をわすれ、今ここで懺悔し悔い改めます。」という意味である。以上の言葉を引用され、私どもの望ましくないもろもろの行為は、皆、無始以来、いつとはなしにこの身にしみついた貧瞋痴(とんじんち)の三毒のなせる業なのです。この三毒のかたまりである「我」が私どもの生活を支配しているから、ほんとうの日送りができない。それで、「これではいけない、また我が出た。と常に反省懺悔していく。すると、懺悔の力がやがては百八十度自分を変えてくれるのです。自分が変わるだけでなく、周囲もみな変わってくるのです」と述べられ、心を学ぶように諭している。
また、太田典生氏は子供の育て方に、最近の親は、「何不自由なく育てました」という。この頃では、子供の欲しがるモノを全部買い与え、したがることは即座にさせ、嫌がることはさせない親が多い。そして「何不自由なく育てました」と言う。が、そのような育て方をされた子供は、自分の欲望を抑えること、我慢すること、待つこと、自分で始末すること、人を思いやることができない。そんな子供は、一人で生きていけないこの世では、実に「不自由きわまりない」目に遭うことになる。そんなことに親は全く気がついていない。物欲はもちろん、快楽への欲望、自己主張への欲望など、思ったが最後、矢も盾もたまらず、自分の欲望と対象との間に、時間的にも空間的にも距離を置くことができない若者たちは、そうやって育てられたのである。自分の自由とは、「なんでも自分の思い通りにすること」でなく、いくつかの選択肢の中から自らの意思によって「選ぶこと」のできる自由です。それには、一方を捨てる厳しさと選んだことを責任を持ってやり遂げる義務が生じます。そんな、考えて選ばせる躾が今、失われていると思います。と述べられている。
医師になる前に考えさせられる言葉である。
日本医事新報の研修医“べからず”集で、「好かれる」というよりも尊敬される医師になれと、簡単にいわれているが、そのようなことを言われても、両親に育てられたことを、他人が矯正しようと思っても出来ないことである。現実的には、小さい頃から躾けることが大切で、幼児期に心に響いた我慢強い経験が大切であるといえる。
以前、You must try everything!という私の人生訓(座右の銘)について述べたことがあるが、自分で考えて選んだことに最後まで責任を持ってやり遂げることであると思う。
ホンダの社是である三現主義という言葉がある。
現場・現物・現実の三つの現を重視することで、問題が発生したときに、現場で問題の起きた現物を観て、いかなる状態であるのか(現実)を確認することが重要である。医療の場合も同様である。
現在、東日本で起きている災害についても、長たるものが、三現主義を実行していれば、もう少し信頼が得られるのではないかと思う。ちなみに、三現主義は、榎本武揚が農商務大臣時代には、懸案であった足尾鉱毒事件について初めて予防工事命令を出し、明治30年3月23日に、私的ながら大臣自ら初めて現地視察を行った。また、企業と地元民の間の私的な事件であるとしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし帰郷後、大熊重信らにその重要性を説諭、鉱毒調査委員会を設置し、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、同年3月29日には、自身は引責辞任した。とされたのが最初であると言われている。
医者になる前に読む本「診る人・診られる人へ」の作者、定塚甫氏は、簡単に「医者になる」と言いながら医学部を受験する上位成績の生徒に対して、「果たして彼らの何人が生涯医者であり続けることが出来るか?」などといろいろな提言を述べられている。
原則的には、森 信三氏の「しつけの三大原則」が基本と考える。
「口でもってしつけるのでなく、自ら、先に、必ず、根気よく、しつづける」ことです。
ちなみに、平成元年頃、山陽空調KKの故浅田四郎氏に進められ、森信三先生の「修身教授録」を読ませていただき、度肝を抜かれた感じで、折りに触れて何度も読み返し、私の人生観を根本からかえられた感動を覚えました。
参考文献
1)修証義への誘い:佐藤俊明著 曹洞宗宗務庁 1985年
2)「いい話」のおすそわけ:太田典生著 三笠書房 1995年
3)医者になる前に読む本「診る人・診られる人へ」:定塚甫著 三一書房 2007年
4)榎本武揚 Wikipedia
5)森信三語録 心魂にひびく言葉:寺田清一 致知出版社 1995年
6)森信三 修身教授録 「現在に甦る人間学要諦」:森信三 致知出版社 1989年
屋敷建夫 平成25年5月
自分が生きてきた道程をふりかえって見ると、師を求めながら歩んできた人生のようである。私にとって、「良い師を捜して、師の教えを請う」ことを生きがいとしてきた。
小谷野敬一郎氏は、昔の教育は、師が全てであった。良き師を求めて、捜して、その師のもとで学ぶのが一番大切なことであり、この時代の教育といえば、「第一に道徳であり、人格形成であった」と。師を求める、歴史的な人の言葉を捜してみると、森信三氏は、「人はすべからく終生の師をもつべし。真に卓越せる師をもつ者は、終生、道を求めて留まることなく、その状、あたかも北斗星を望んで航行するが如しいくら行っても、到りつく期になればなり」と言われ、一人の人間が出来上がるうえで、最も重要な三大要素として、「血・育ち・教え」を上げている。
道元禅師は「正師を得ざれば学ばざるにしかず」と言い。吉川英治は、「我以外皆我師」といい、人生は学校である。学ぶ心さえあれば、どこでも、誰からでも、何からでも学ぶことができる。
新渡戸稲造は、「自分を生んでくれたのは父母である。自分を人間たらしめたのは師である」と言われています。しかし、この世に生を受けて、幼少時に確固たるしつけを受かられたら、人に対する接し方は、自然と備わってくるものと思う。
童門冬ニ氏は、以前勤務していた時、時代の流れで、人員削減の目的で、希望退職者を募った時、希望退職者に応じてくれる人は少なかった。この時、目立たない津田さんという職員が、「私を辞めさせて下さい」と申し出てきた。彼は、自分なりに真実一路の道を辿って、出会いを大切にしたいと思っている方でした。
父の蜜柑山を引き継いで、初生りの蜜柑が送られて、手紙が同封されていた。彼は、「私にとって、一番大切な生き方は、この世で、出会って本当に良かったなと思う人の発見でした。あなたのような方は、今の勤めに絶対必要です。」といって、竜門冬ニ氏は、津田さんの「人間は、生きていく上で、何を一番大切にしなければいけないか」という考え方に胸を打たれたと言っています。
シラ書に、「身なりや笑うときの口の開け方、その歩きぶりはその人の人柄を示す」と言う言葉がある。一見して、身なりや、笑うときの口の開け方などは、個人の直感によるものがあり、その直感力は、人に対する注意力・観察力を養って始めて生かされることで、幼少時より自然に学ぶものと考えられる。これには、森信三氏の言う、「血・育ち・教え」が必要になってくる。能力のないものが「身なりや笑うときの口の開け方、その歩きぶりはその人の人柄を示す」を見て判断することは難しいと考える。受験戦争を終わって、有名大学に入っても、レールに敷かれた授業を受け、「本当に学びたいものは何か」を考えるゆとりもなく、大学の集団生活を送るようであれば、大学はなんだと考えざるをえない。大学は、叡智を学ぶ場であり、「師」を探す場であると思う。
大学を出て、社会の組織の中にはいると、生涯学習の目的を持って、互いに相手の立場に立って、良いところ、悪いところを是正し合い、互いに成長して行くものと思います。童門冬ニ氏は、都庁で企画調整局長を努め、当時、三百人の部下を①言わなくてもわかる部下、②言えばすぐわかる部下、③いくら言ってもわからない部下の三つに分けて苦しんでいました。或る時、禅僧に相談して、禅僧より「一期一会」について教えをいただいた。「朝、たとえば会社に行って、おはようございますと言った相手がどんなに顔馴染みでお前の言う嫌いな相手であっても、そのとき初めてこの人と会ったんだなというフレッシュな出会いを感じる。これが一つ。二つ目は夕暮れに仕事が終わって、さようなら、お疲れ様と言うとき、もう二度と会えないかもしれないと思いなさい。つまり朝はフレッシュな出会い、夕暮れの別れは緊張感をもった別れ。そして、緊張感を持った別れから逆算した朝のフレッシュな出会いという意識があれば、勤務時間中の八時間かそこらの間には必ずお前だって三通りの人に出会っていることがわかるはずだよ。①学べる人、②語れる人、③学ばせる人の三通りだ。学べる人というのは師、語れる人というのは友、そして学ばせる人というのは後輩とか部下とか子供とか、こういう人。しかもその関係は、固定的ではなくて始終移動する。たとえば今年採用したばかりの若い職員が職場に駆け込んできて、『出勤の電車でこういう経験をしました。これは課長がかねてからおっしゃっていた、我が社の危機のケーススタディになるんじゃないですか』と言ってお前を感心させたとする。このときの課長は、新規採用の社員を指導する立場でなくて、教えを受ける立場になっている。上下関係がひっくり返っている。こんなことは、八時間の間にいろんなケースがあるだろう。それが本当の一期一会だよ」と、こう言われました。そして「お前は考えが足りない。だから死ぬまで苦しみなさい。はい、お終い」と、こういうことです。局長になったとき、この禅僧の言うような気持ちがあったらなと、つくづく思いました。しかし、後悔先に立たずで、これは死ぬまで苦しまなきゃいけないと思っています。と述べられています。
清水安三氏は、「学而事人」(まなんでひとにつかえる)を座右の銘として、学問のために学問するのでもなければ、教養のために学問するのでもありません。人に奉仕するために学問すべきである。学問に限らず、すべては自分の利益に行うのでなく、人に奉仕するために努力すべきとした。
松下幸之助氏は、2・6.2の法則について述べられています。社員について、2割の出来る社員・6割の普通の社員・2割の出来ない社員がいて、会社や組織を改革できる人2割、その2割にくっついて行く人6割、あとの2割はそっぽを向いている人でバランスがとれているという。
どんな集団にも2・6・2の法則は成り立つということである。組織に貢献しない2割を除去しても、残ったものの比率は、同じように2・6・2になるという。2割の貢献する人だけを集めても、同じような比率になるという。蟻や蜂で実験してみると、蟻でも自分より下位の者がいるから「自分は頑張る」あるいは「生きがい」になって、下位2割の集団はこの意味で「無用の用」をなしていると言える。
少而学,則壮而有為。壮而学,則老而不衰。
老而学,則死而不朽
『言志四録』佐藤一斎の一節『三学戒』
少(わか)くして学べば、則(すなわ)ち壮にして為(な)すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰(おとろ)えず。老(お)いて学べば、則ち死して朽(く)ちず。
屋敷建夫
ふと、私の昔の随想を目にした。昭和43年の記録である。
「叱られて、叱られて、あの子は町まで、おつかいに・・・・」という歌を聞いた時、父母に叱られた事が、走馬灯の如く思い出されてくる。悲しいにつけ、苦しいにつけ、父や母に叱られたのを、何の原因で叱られたのか分からないが、懐かしい思いがこみ上げてくるのである。子供というものは、遊び続けると家に帰ることを忘れて、一生懸命遊んでいるものである。
あれは秋も深い頃、ふと我にかえった時には空は暗闇につつまれて星がちらつき子供心に、今日も遅くなった。帰ったら叱られる。しかし帰るところは、自分の家しかないし、叱られるかもしれないと思いながらかえるのである。玄関の戸をそっと開くや母が一番先にでてきて、「なにを、しょうったん。勉強もせんで」「うん」とうなずくき入ろうとするが、めったに怒ったことのない父が「何をしとったか、今日は家にいれんから出て行け」と外におっぽり出された時、不安におそわれ戸の所へ泣伏し「とうちゃん、もう悪い事せんから入れて」泣き声で叫ぶも、父はいっこうに入れてくれない。母は父に「もう入れてあげたら」とたのんでいるが、父の声はせず、悲しみにうちひしがれ、そのまま眠ってしまいそうであった。ただ涙もかれはてて「ひっく、ひっく」とシャックリだけである。二、三時間たったであろうか、ちょっとの時間でも非常に長く感じたものである。母親が「かわいそうに、もう入ってもいいよ」といった時は、「おかあちゃん」と母のふところにうずくまって再び鳴き声をあげた。「もう寝ようね」といってふとんの中に入った時、父のことをうらみながら「とうちゃんなんか死んでしまえ」とふとんをかむったまま寝こんでいた。
朝、起きた時は父と顔をあわすのも気まずい思いで、おぜんの前に向い合う。「もう悪いことをせんか」と重い一言に「うん」と言ったきり子供心に、もうこれからは早く帰ろうと思ったものである。父の愛情、母の愛情の愛情は強いもので知らず知らずのうちに、正しい事、正しくない事を身につけたものである。
教養部時代に、医学部の学生だけにラテン語を教えていただいた小出哲夫牧師より、「幸福を築く教育」の小冊を私に贈呈していただきました。
その中で、性格は六歳までにつけるべきで、第一に厳格・父親の監督の厳しさ、第二に母親のしつけの厳しさ、第三に父親の愛情、第四に母親の愛情、第五に父母の調和のとれた育て方などをあげ、
乳児期の第一の仕事は睡眠。一人で寝かせる。 添い寝をしないこと。
第二は運動。 力一杯泣く 呼吸筋・内臓諸器官の強化。
第三は腹一杯乳を飲ます。
乳児前期(1歳半から三歳まで)は、自分でさじを使って、できるだけたくさんこぼさせる。観察を養えば、保育園でできるようになる。抵抗力をつける。ばい菌を食べて抵抗力をつける。
幼年後期(三歳から九歳まで)社会性の芽生える時、言語発達・対人関係の習慣づけと、反復と厳格の教育が必要である。
幼児には素直さが大切:子供がさからった時、素直でない時、服従しない時、すねた時、駄々をこねた時などをほっておくと性格が悪くなる。まじめな顔をして、ほっぺたを叩くこと。
十歳ぐらいから緩め始め十五歳から自己責任を持たせる。九歳以後必ず、小遣い帖を付けさせる。親からもらったお金を、何に使ったかをつけさせて、月末に、どのくらい使ったか勘定させることです。とのべられている。
近頃、子供を叱る事が非常に少なくなった。学生時代、小児科の診察室でよく見うけたものであるが、きかん坊が多く、神経質な子供が、実に多い。その割りに知能はずる賢く発達しているからしまつが悪い。その時、教授・助教授達は、その子供達の母親に「育て方が悪いですね」とよく言ったものである。ものは豊富にあるし、子供の数に比べて、かわいがる人数が多いときている。子供にしては、ほしいものは何でも手に入れようとすねる。育児ママは、自分の子供だけは立派に知能のすぐれた子供に育てようと、勉強のためなら何でも買って与えるのである。知能と精神発達とはかけ離れているのである。だいたい子供が分別がつき始めるのが三~四才頃である。
その頃、テレビや他のマスコミの影響を受けてものを覚えることが発達し、だいたい子供の知能いうものはどこの子でも余りちがわないのに「うちの子供はよその子より良くできる」とほめ、いろいろできる具合をよくする為に「はい良くできましたね」といろいろ子供をあおりたて子供のほしいもの買い、親ばかとはよく言ったものである。子供の世界というものは、子供だけで作るもので大人が入ると非常に神経質に、いらぬ知恵ついて育ってくるものである。子供達だけが遊んでいるのを見ると、順応性に富、非常に無邪気である。
さて子供のことはさておいて、叱られるということは、叱られ方にもよるであろうが愛情のある叱られ方はいつまでもいつまでも良き思い出として残っている。また、それが心の糧として活き続けるのである。例えば、子供を叱る場合に、子供の肩をしっかりとだいて叱る時と、子供と離れて叱りとばすのを比べた場合、想像しただけでどちらが良いか分かるであろう。
暖かい愛情のある叱り方は実に美しい。人間の感情を通じて体全体に流れるのである。それは、親と子供だけの間でなく、人間と人間の間にあって一つの和が出来ると、私は思うのである。
昭和22年の頃、父が戦後復員して、私の実家は、貸本屋をしていた。4、5歳の頃である。千一夜物語を読んだ記憶がある。しばらくして、昭和26年に、今日のしつけ 新しい日本人の誕生 三啓社の本を目にした。
その本の中で、志賀直哉が、「電車に乗った時に、子供たちが我が物顔で電車に乗り込んで、年寄りを押しのけて、座席を占領している。これからの日本はどうなるんだろうか」と嘆いておられたが、約1年前だったと思うが、芸備線で通勤している私の乗っている汽車で、少年ソフトボール部員の小学生が、監督の指導がよいのか、その子供たちは、座席に座ることもなく、年寄りに席をすすめていた。日本も捨てたものではないかと思ったが、そのようなことは、10年間で、たった1回きりであった。汽車のマナーも、60代、70代の年寄りのマナーが悪く、足の短いのが、足を広げて座席を占拠している。このような人に育てられた子供は、どうなったのだろうかと思うだけで、恐ろしくなる。
また、その本の中で、「西欧で受けた躾」と題し、前田陽一氏は、〔前田 陽一(まえだ よういち、1911年(明治44年)11月3日 - 1987年(昭和62年)11月22日)はフランス文学者、比較文学・哲学研究者。群馬県出身。父はGHQによる占領期に、文部大臣を務めた教育家の前田多門。妹は精神科医・翻訳家で、ハンセン病救済活動で著名な神谷美恵子。〕フランスに留学した時に、三人の子供は全部パリで生まれ、妻と二人で子育てに苦労した話である。妻の話によると、産院では、赤ん坊に乳を飲ます時間はキチンと定まっており、飲ます前後には必ず秤にかけて、一回に与える乳の分量を調節する由で、オシメを変える時間も同じく一定しているそうである。その極まり方たるや、実に徹底していて、例えば、乳を飲むべき時間に赤子がグッスリ眠っていても、それをたたき起し、まだ寝ぼけている為に殆ど乳を飲まなくとも、そのまま次の時間が来るまで飲ませない。またオシメを変えた直後に汚したことが分っていても、次の時間迄は変えない。夜中になると別の部屋に連れて行き、泣こうが喚こうが朝になる迄は絶対に与えさせないというのである。之は病院側の便宜からそうなっているのかと思うと、さにあらず、前田氏が字引と首っ引きで読んでいた育児法によっても、この様に規則的に扱うことが赤ん坊自身の為に最もよいというのである。
これが、我慢強い子を育てる元になるというのである。私が子供の頃は、両親が畑仕事をしている時は、赤ん坊を、藁で編んだ駕籠にいれて、時間が来たら、子供に母乳を与えるのである。その間、赤ん坊が泣こうが、オムツが濡れて、機嫌が悪いとか関係がないのである。
幼少時に我慢することを覚えた子供は、土光敏夫氏のメッセージに「苦労を体験して地力をつける」という指針を目にしたことがある。「地力とは、人間の足腰を鍛え、少々のことではへこたれない本物の力を意味する。地力をつけるには、苦労を体験するのが必須条件という。苦労を知らぬ人間は、端から見れば一にしかみえぬ打撃が十にも二十にも感じられ、そのショックひとつで潰れてしまうことがある。学校秀才型の、いわゆるエリートにその傾向が多くみられる」と結んでいる。
私が以前、勤務していた病院の増田哲彦院長も「病院経営は人なり」と言うのが口癖で、「若い時、苦労している人は人情味に溢れ、エリートコースを歩んだ人は型にはまりやすい傾向がみられ、自分から進んで物事に対処しようとしない。あまり頭が良すぎて、机上の学問では結果を先に求めて、研究にしても目新しい事も出てこないようである。無人島に置き去りにして各自の生き様をみれば一目瞭然であろう。だから人が大切なんだよ」と言われたことがある。
エネルギーを使う時、肉体的労働と精神的労働とどちらがしんどいかと尋ねられると、人によってさまざまであるが、どちらも同じ量のエネルギーを使うものと言われている。ただ受取る人によってそれをストレスと感じるか、楽しみとして感じるかによって効率が全く異なってくる。体験も興味をもってすれば、例えば、暑い真夏に山登りをするようなもので、汗をかきながらしんどい思いをして頂上を極めた時の爽快感は、いつまでも心地好い記憶として残る。勿論、上から押し付けられ、叩き込まれた体験も、その時はわからなくても、がむしゃらにやっているとなんとか身についているもので、昔の徒弟制度がそうである。現在でもスポーツ選手とコーチの関係、外科系医師の師弟関係等に相通ずるものである。しかしそこには、人それぞれの能力にも関係するが、世にいう名伯楽にめぐりあうことも大切である。
人生計画には経済的基盤、体の健康管理、心の健康が必要とされている。どれが欠けてもうまくいかない。しかし経済的基盤はその時代にマッチしたものであればよしとするか否かは心の問題となる。やはり心の健康、体の健康がまず第一で、その上で自然に経済的基盤がついてくるものと思うのである。心技体が備わってくるまで、体験を積むことが必要であろう。
《「昔はよかった」という言葉をよく聞く。でも、本当に昔がよかったのか、そうじゃない。新しい時代に適応できなくなっただけなのである。》と波多野完治は述べられているが、単なる懐古的な感じであるが、新しいことにトライすることを願うものである。現在、実践されている生涯学習は、ポール・ラングラン(Paul Lengrand)が1965年に初めて提唱したもので、元来はlife-long integrated education、すなわち生涯教育といわれた。日本では、心理学者の波多野完治が、この概念を日本へ紹介している。佐藤一斎の
「少(わか)くして学べば、則(すなわ)ち壮にして為(な)すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰(おとろ)えず。老(お)いて学べば、則ち死して朽(く)ちず。」の気持ちが生涯学習について述べられたものである。
故黒住静之先生は、「山青花欲然」杜甫の詩「山青くして花燃えんと欲す」の中で、新しい任地、山の緑に囲まれたリハビリテーションセンターでの、これからへの願望をこめて題としたわけであるが、詩の一部を詩全体の原意と違った意味に転用しては、杜甫先生から抗議されるかも知れないが、この詩は「何日是帰年」終わる。帰年は故郷に帰ることであるが、これ亦、自己流に用いさせていただき、何れの日にか、故郷に帰るまで、何年間か、重荷を負った人々の為に幾らかでも役立つ仕事をしたいと希っている。
その後、故黒住静之先生の妻・黒住 静さんは、「柊」で、夫の死後、ふと著書「山青花欲然」のはしがきを見ていて、私ははっと致しました。「何れの日にか、故郷に帰るまで、何年間か、重荷を負った人々の為に幾らかでも役立つ仕事をしたいと希っている。」と、夫のふるさと__それは地上のふるさとではなく、夫のふるさと、本源のふるさとだったのでした。そのことを彼の内奥の魂はどこかで知っていて、このはしがきを書いたのでございましょう。と述べられている。
話は、私の当時の思い出であるが、故黒住静之先生が、次のような兵学校のことを述べられたことがある。最後の海軍大将 井上成美 昭和17年10月に、第四艦隊司令長官の職を離れ、江田島の海軍兵学校の校長に転出した。(11月10日に着任。)大胆な教育方針・徹底した英語教育をした。「いったい何処の国の海軍に自国語しか話せない将校があるか。私が校長の職にある限り、英語の廃止など絶対許可しない」と一蹴し、全生徒に英英辞典を持たせるほど、英語教育の徹底化を図った。そんな折に、江田島の海軍兵学校を訪れた、鈴木貫太郎大将は、「いいか、兵学校の教育の成果が現れるのは、二十年後だぞ、井上君」
井上はそのとおりだと強く頷いた。
昭和19年8月5日に海軍兵学校から、海軍次官に転じた。
退任挨拶「私は過去1年9ヶ月、兵学校長の職務を行ってきたが、離職に当って誰しもが言うような、大過なく職務を果たすことができた、などと言わない。私のやったことが良かったか、悪かったか。それは後世のの歴史がそれを審判するであろう」
故黒住静之先生は、昭和19年4月呉鎮守府付、昭和19年6月海軍兵学校教官になり、井上成美校長との接触は、昭和19年4月に呉鎮守府に赴任したときから、江田島海軍兵学校にも時々行き来して、6月に海軍兵学校の教官になり、井上成美兵学校校長が同年8月5日に海軍次官に転じるまで、約4ヶ月の部下であった。非常に強い感銘を受けられたよしの、お話をされたことがあった。
教育係りを仰せつかった時に、「十年後、二十年後に、人に役立つような人になるように、見守って下さい」といわれた言葉を思い出します。
霜に打たれた柿の味 辛苦に耐えた人の味
参考文献
今日のしつけ 新しい日本人の誕生 三啓社 昭和26年
幸福を築く教育 小出哲夫 藤樹学会 昭和39年
邦友クリニック平成26年度 年報 屋敷建夫
守破離(しゅはり)
『規矩(きく)作法 守りつくして、破るとも、離るるとても、
本(もと)を忘れるな。』は、千利休の茶道の心得を読んだ短歌である。
或る人の説明であるが、
まず基本をしっかりと身につけ、その上で自分独自の世界を作り上げ、最後は、何事にもとらわれないように自由さを獲得することこそ、修行の目的である。そしてそんな最高の境地になっても大切な基本である。つまり、修行をする上で、進むべき各段階を示し、最高の境地に達したとしてもやはり「本(もと)」、つまり最初の基本を「忘れるな」ということ。例えば、仕事の上でのルールや常識を、マニュアルや先輩のやり方によってしっかりと身につけたところで、初めて自分なりの工夫、仕事のやり方を盛り込んでいく・そんな「習得」の世界にも通じる言葉だろう。今回の名言で表現されている「守」「破」「離」という言葉は、一説によると、室町時代の猿楽師である世阿弥(ぜあみ)が著した書『風姿花伝』にある「序破急」という言葉に感銘を受けた利休が、これを「守」「破」「離」という言葉で表現したものとも言われている。
「守破離」についての説明も、人生の指針としていろいろな方に解釈されている。列記してみると、
などである。
我が人生を振り返ってみると、耳鼻咽喉科に入局して以後の生きざまは、人材育成は、良き師匠に巡り合って、「守・破・離」を自分のものにするように努力することであると自覚しています。それは、「人材育成」にきわめて大切なことで、他には「人材育成」に付随して、「人間関係」の改善を促すものでした。
昭和44年に広島大学医学部耳鼻咽喉科学教室に入局する。きっかけは、学生時代、偶然による、故黒住教授との出会いであった。医学の道を目指すものとして、非常に他愛のないこことであった。12月8日の記念日について質問されたことがある。私にとっては、昭和17年12月8日は、私の誕生日である。同時に、昭和16年12月8日は、真珠湾攻撃の日であった。黒住先生にとっては、いみじくも、先生自身が、昭和16年12月8日は、真珠湾攻撃に出撃していた日であった。当時、私の名前の由来について(隼戦闘隊長 加藤建夫より、親父がいただいた)等についてお話したのが、最初であった。黒住先生は、私の生まれる前から医師になられていたんだと思ったものでした。
時間は遡って、昭和41年、医学部3年生の夏休みに、東洋工業附属病院(現:マツダ病院)でお手伝い(レジスタンス)させていただく機会を与えていただいた。 その当時、故益田弦先生が診療にあたられ、益田先生の患者(頭頚部癌)の手術に、黒住教授が度々来られて、手術場で第二助手をさせていただくかたわら、ザックバランに色々なことを話されていた。 益田先生は黒住先生が、広島赤十字病院に勤務されていた時の一番弟子で、大変な師弟愛で結ばれていた。昭和44年に入局して、1年間、東洋工業附属病院(現:マツダ病院)へ出向を命ぜられた。 その1年間は守破離でいえば、前座の状態でした。 昭和45年に教室に帰局してから、私の基礎を鍛えなおす気力で、医師の道に邁進する気持ちでした。 当時の広大耳鼻咽喉科の医局は、朝8時30分に出勤し、9時からの外来患者の予診・検査等を行い、午後より入院患者の回診・術前検査(血液検査などはもちろん採血と鏡検を行っていた)、途中、急患の取り合いで勉強させていただく。 夜、10時ごろになると、黒住先生が英文の論文を一部づつ、各医局員の机に置かれて、教授室に帰られる。その論文を、約1時間ぐらいで仕上げて、翌朝、教授室へ持って行きます。もちろん、考察を述べなければなりません。夜の12時を過ぎて、各自、自宅に帰っていきました。当時私は音戸から通勤していました。もちろん、夕食は午前1時頃で、朝食は7時頃です。また、急患等があれば、そのまま帰れないことがありました。黒住教授の手術には、我先に、見学に駆けつけ、手術方法の見学です。特に、頭頸部の手術は、圧巻で、喉頭癌の局所麻酔のもとでの喉頭摘出術は約30分以内に終わっていました。全身麻酔下での、喉頭摘出+頸部廓清術を行うときは、見学している若い医局員に名指しで、頸部の解剖部位を示され、この神経・血管の名前は?と聞かれ。答えられなかったら、そこで烙印を押されていたようでした。だから、頭頸部の解剖基礎のことについて必死で覚えたものでした。昭和46年の10月頃だったと記憶しているが、黒住教授より「解剖学教室へ、行ってきなさい。沢野教授にお願いしていますから」と、故上田直昭先生と、岡崎英登先生と私の3人で、光源、額帯鏡、手術道具を持って解剖教室におしかけて、たまたま、学生の残した貴重な屍体で手術の練習をさせていただいた。屍体の頭部だけであるが、手術部位の耳・鼻・咽頭・喉頭の位置感覚を手術道具で探索させていただいたのが非常に新鮮な記憶で残っている。これが入局後の最初の貴重な解剖実習であった。率先して実習・経験する教えを受けた。もちろん、喉頭腫瘍の試験切除の練習として、綿棒などを入れる、金属製の筒にマッチ棒の先をいれて、喉頭鉗子で採る練習をしたのが懐かしく思い出されます。その後、博士号論文にする実験は、骨・軟骨などについてで、基礎の実験の大切さを教えていただきました。
その刷り込み現象は、昭和56年になって、たっての希望で、ロサンゼルスのHouse Ear InstituteでTemporal Bone Dissectionの実習をさせていただくことにつながっていった。
帰国後、Translabyrinthine Approachで聴神経腫瘍摘出術を行うことができた。
大切なことは、昭和44年に耳鼻咽喉科に入局した時に、当時の事情もかんがみて、益田弦先生の所に預けられた。黒住先生から益田先生を通じて、下記のごとく色々なことを教わりました。
以上が私の、「守破離」であると自負している。
最近の時代では、昔のやり方は通用しないと思いますが、原則は変わりないと思っている。
邦友クリニック平成27年度 年報 屋敷建夫
生かされて生きる:屋敷建夫
昔は、織田信長の時代であるが、人生50年と言われてきた。
戦争中は、若者が、戦死していくなかで、平均寿命も50歳から60歳までであったようである。現在は80歳を超えてきている。
私は、昭和17年12月8日に誕生した。当時は、産科医など田舎にはいない。医者は、ほとんど戦地に招集され、自宅に産婆さんを呼んでお産をしていた。
私の生死に関する事件は、3回起こっている。
一度目は、出生時のことであった。私の誕生は、全身チアノーゼで、呼吸・心臓停止の仮死状態で出産とのことであった。当時、家の周囲は雪があり、かなり寒い日であった。産湯を使う状況より、タライの水に雪を入れて、心臓を投打しながら、産湯と交互に冷水につけて、ショック療法で生き返ったとのことであった。「生き返った子供は、将来、どのようになるかわからないが、これも生き運だから、見守りましょう。」と産婆に言われたとのことであった。親父は、当時、招集され戦地で、衛生兵であった。隼戦闘隊の加藤建夫隊長(かとう たてお、1903年(明治36年)9月28日 - 1942年(昭和17年)5月22日)の名前を戴いて「建夫」と命名されたとのことであった。
二度目は、昭和20年7月1日、呉軍港を爆撃するために、飛行機の通り道に、倉橋島の我が家に焼夷弾が落とされて、屋根を突き抜けて枕元に落下、我が家は全焼した。私は当時2歳7ヶ月であったが、命からがら、母親に背負わされ、防空壕に避難した。その時の記憶では、焼夷弾で我が家が焼けているのを、眼に焼き付いている。焼夷弾が50センチメートル離れて落下してきたのは、生き運であろうか? 周りも、焼夷弾で焼け焦げて、西芳寺の御門が半焼して、現在も、そのまま残っている。
三度目は、小学生3年生の5月に、学校より、広島市の動物園の見学に行った時に、(動物園は基町に有ったと記憶している)暑い中、場末で売っているアイスケーキを食べて、自宅に帰った頃に、腹痛・下痢を生じ、いろいろ検査してもらうが、原因不明で、田舎より、いろいろな病院(呉国立病院・呉共済病院など)を転々として、約6か月間治療するも効果なく、最終的に腸チフスとのことで、当時、強制入院の施設がなくて、1本の闇値段で1万円のペニシリンを借金しながら、約20本筋肉注射して、治癒したが、痩せこけて、10ヶ月、学校を休んだ。それから、小学生6年生になっても、痩せこけた状態で、体力もなかった。正露丸だけは続けて服薬させられた。両親より、「お前は3度死んでいる。とにかく、生かされて生きている。」と言われていた。何とか生かされてきた人生であった。当時、病気しがちな私をみて、友人が、私を元気づけるために、朝、5時ごろ起こしに来て、私を連れて、マラソンの朝練に誘ってくれた。それから中学生になって元気になって学級内でのマラソンの選手になった。当時の田舎の風習で、酒・たばこも愉しむようになって、元気になっていった。
私の田舎では、中学校を卒業すると、大部分は集団就職で大阪・名古屋方面へ旅立って行った。私は、当時小学校の国語の教科書にアルベルト・シュバイツァー(Albert Schweitzer/1875年1月14日-1965年9月4日)アフリカでの活躍している話が載っていた。それに感銘し、病弱であった私も、医師になって、病気になった人のお世話をしたいと思った。
それを両親に話して、高等学校へ行かしてもらうようにお願いした。
親父の、教えは、「人事を尽くして天命を待つ」人間の力としてできる限りのことをして、その結果はただ運命に任せるのみと、教えられ、 ラジオの浪花節に耳を傾けながら、義理・人情・浪花節を称えていた。これらの擦り込み現象であったと再認識するのである。
広島大学医学部に入学しても、親は、大学での授業料・生活費は、一切を自分で賄うのが条件であった。だから、特別奨学金と、アルバイト(ほとんど家庭教師)で卒業できた。卒業すると同時に結婚、当時、入局しても無給のために、今は、亡き黒住教授の計らいで、東洋工業付属病院に出向を命じられ生活費をかせぎながら、我が実家は子沢山で、両親は自宅へ送金するように頼まれて送金をしていた。家内は、生活費ぐらいの仕事をしていたので、何とか送金をすることができた。父母は、「いろいろ苦労かける」といって、あの世へ旅立った。母との思い出は、寒い大塩の時期になると、朝早くから、磯牡蠣を取るために、出かけていく、収穫は、飯盒一杯の牡蠣を取ってきて、食べさせてくれるのである。母親の牡蠣の料理は、磯牡蠣を酢牡蠣にすることで、そのレシピは、母親の独自のもので、酢味噌に、ネギ、炒り子を炒ったもので和えるのである。磯牡蠣は、岩牡蠣を採取するもので、小粒でプリンプリンしている。一生忘れられない味である。鳥羽一郎の唄「海の匂いのお母さん」を聞くと、泣けてくるのである。
昭和50年8月には、黒住先生より「君の人生だから」と広島記念病院へ転勤をすすめられた。広島記念病院では、当時の内科医長 結城 庸先生より、医学全般はもちろん、かけがえのない自分・生き生き人生について、必死になって御教授していただきました。
「自分を肯定し、過去を悔まず、人を責めず、日常の活動と人間関係に感謝を」の言葉をいただき、
等についても御教授していただきました。
その後、結城先生は、本部の辞令で吉島病院院長に就任され、いろいろな改革に御尽力され、看護婦の教育で私に指導を頼まれた時でも人も見る目は確実で、指導した看護婦は、吉島病院の総婦長になられた。
さて、自分のことをふり返ってみると、医師の本分は、勉強して患者のお世話をすることであって、必死になって勉学に励んだ。子供が出来ても、家内にお任せで、病院と自宅の往復であった。でも入局して3年目で故黒住先生より新入医局員の教育係りを命じられて、目先のことにこだわらないで、「20年後に如何なる医師になるか」を新入医局員に考えて勉強するように指導させてもらった。毎年、新しく入局してくる方に、「柿の木でも、柿の実が多くなる年と、出来ない年があるように、出来る医者になるか、出来ない医者になるかは、勉学する姿勢の基本にかかっている。これは多分、各自の素質に起因すると、入局してきた新入医局員に医師の基本姿勢だけをお願いした。基本姿勢は、以前にも示したように、再現してみます。
研修医教育について
基本的に、「挨拶ができること」である。
今更とお思いでしょうが、まともな挨拶ができる人は、極めて少ないと思います。これは、24歳、25歳の大人に言っても、直しようがありません。親の躾の問題です。少し手遅れの感じであるが、幼稚園ではできていたのだと思いなおして、敢えて挨拶を指導しています。
報告、連絡、相談をすること。
疑問に思うこと、分からないことは必ず聞くこと。繊細な目で観察することである。
分からないことが分からないのである。
研修医を受け入れる以前に、優秀な人材をいかに育てるべきかを考えていくべきだと思います。それなりの性格であれば、育つもので、頭(記憶力)が良くても性格が悪ければ、病院のイメージダウンになります。
人を評価する際は、自分の能力を基準にしがちである。だから、自分の長所としている点について、他人の能力が少しでも自分より劣っていると、非常に低く評価し、自分より優れていると、非常に高く評価する傾向がある(掘田 力)と言われています。
問題は、研修医を指導する時、実技について、どれだけ知っているかではなく、どれだけ伸びるかであると思う。例えば5人の新人入局者が入る時、「努力次第で、1年たつと差が出ますよ。1年でどれだけ伸びるかによって差が出ます。2年、3年以上になると益々差が出てきますから、心して頑張って下さい」と指導したことがある。必ず差が出るのは致し方ない。
しかし、無能力な、堕落した権力に溺れるような、威張ったり、叱るだけの上司に評価されるとたまったものではない。正当な評価がなされない。イエスマンだけ重宝するようである。こんな上司は、早く辞めてもらいたいと願うのみである。
稲盛和夫氏は、人は自分一人では生きていけません。空気、水、食料、また家族や職場の人たち、さらには社会など、自分を取り巻くあらゆるものに支えられて生きているのです。
そう考えれば、自然に感謝の心が出てくるはずです。不幸続きであったり、不健康であったりする場合は「感謝をしなさい」と言われても、無理かもしれません。それでも生きていることに対して感謝することが大切です。
感謝の心が生まれてくれば、自然と幸せが感じられるようになってきます。生かされていることに感謝し、幸せを感じる心によって、人生を豊かで潤いのあるものに変えていくことができるのです。いたずらに不平不満を持って生きるのではなく、今あることに素直に感謝する。その感謝の心を「ありがとう」という言葉や笑顔で周囲の人たちに伝える。そのことが、自分だけでなく、周りの人たちの心も和ませ、幸せな気持ちにしてくれるのです。
西田天香さんは、生かされている生命 ― 許されて生きる
人間は生きんがために食べ、食わんがためには働かねばならないといいます。そこには人間は生きることが目的であり、食べることを目的として働くのが人間であるという、人間観、人生観があります。 ところがそれを180度転換させて、この生命は授かりものであり、生きようとしなくても生かされており、生かされているから感謝して働かせてもらうのだ、そのために必要な食は求めなくても与えられるのだ、という生き方を述べられています。
しかし、中村天風は「人生は生かされてるんじゃない。生きる人生でなきゃいけない。」と述べられていますが、次元の高い境地であろうと思われます。
最近読んだ詩で、武者小路実篤の「老いのこころ」という詩を武者小路が88歳のときに書いた詩である。
私はいつまで生きるか
その事を知らない
しかし私はそのうちに...
死ぬこと事は
まちがいない
私はそれを知るが
それで
あまり悲観しない
死ぬのはあたりまえの運命と思う
あんまり苦しみたくないと思うが
その事を今考えても
あまりやくに立たない
人間は人間だ
生きている間に・・・・
少しでも言い仕事をしたい
いい仕事をしても
何もならないと思うが・・・・
いい仕事をしたい
この世は美しい
そう思っていることが
実に美しい何もならないと思うが
それが愉しみだ
そう思っている 我ながらの喜び
をしみじみ読んでいる。
ここで、私の俳句を、1年を詠んで。
*春燈や 婆に引かれて 爺が行く
*挨拶の 長きにビール 泡ぬける
*秋耕や 昼飯告げる 声の澄み
*小正月 妻の電話の 長かりき
お粗末です。
邦友クリニック平成28年度 年報 屋敷建夫
人情の機微:屋敷建夫
人情の機微とは、人の情け、義理に触れる、感銘を持つことであると言われている。人情の機微は教えることができない。学ぶのでなく、自分で悟るしかない。しかしその人情の機微こそが、人生の根底であり、一番大事なことである。と感じている。「わざとらしくない、後でそれと気づくような、かすかに表れる言動によって、感じる優しさや人の情けが織りなす、心の触れ合い」と、松下幸之助氏は人情の機微は学ぶのでなく、自分で悟るしかないと言っておられる。人情の機微を理解しようと思いやりを持ち、その先は自分で考え動いて感じて悟ることである。
そのような、思いやりの気持ちを持ち、自分で考えて行動するために、幼少時より培われた育ちが大変重要なことであると思います。
私は、平成2年の頃だったと記憶していますが、森信三(教育者)の「修身教授録」、森信三氏に教えを受けた、寺田清一氏の「森信三語録 心魂にひびく言葉」を薦められ、我が目の鱗が取れ、非常に感銘を受けたものでした。
その中で、森信三“しつけの三カ条”を教えられました。
じゃ、このしつけのコツはというと、まず、母親自身が、ご主人に対して、朝の挨拶をハッキリするようにし、また、ご主人から呼ばれたら、必ず「ハイ」とはっきりした返事をするように努力することです。この「ハイ」という一語によって、その人は「我」を捨てるわけです。つまりそれまでの意地や張りの一切を投げ捨てるわけです。同時に、それによって当の本人はもとより、一家の人びとの雰囲気まで変わりだす。昔ね、登校拒否の中学生をもって、困り抜いたお母さんから相談を受けたんですがね。その解決法はただ一つあるだけで、それは明日からあなたがご主人によく透る声で「ハイ」と返事をされることですといった。その人はその通りしたんでしょう。その子どもはその後11日目にはもう登校しだしたとのことでした。「ハイ」と言葉が本当にいえたら、非行少年でも徐々に変わってくる。ところが、本当に「ハイ」がいえる婦人は百人のうち。ニ、三人じゃないかな。表現を変えればね、これだけの俸給を得るために、主人がどれほど下げたくない頭を下げ、いいたくないお世辞をいっているか・・・ということのわかる奥さんにして、初めて聰明な母親となるわけです。
また、田村一ニ氏は、息子が小さい時、どうしても履物をきちんとそろえられなかった、そこで、森信三氏に共鳴された糸賀一雄先生にお尋ねしました。「しつけとはどういうことですか」と。先生は、「自覚者が。し続けることだ」とおっしゃる。「自覚者といいますと?」と聞くと、「それは君じゃないか。君がやる必要があると認めているんだろう?それなら君がし続けることだ」「息子は?」「放っておけばいい」というようなことで、家内も自覚者の一人に引っ張り込みまして、実行しました。実際にやってみて、親が履物をそろえ直しているのを目に前で、息子がバンバン脱ぎ捨てて上がっていくのをみると、「おのれ!」とも思いました。しかし、糸賀先生が放っておけとおっしゃったのですから。仕方ありません。私は叱ることもできず、腹の中で、「くそったれめ!」とおもいながらも自分の産んだ子供であることを忘れて、履物をそろえ続けました。すると不思議な事に、ひたすらそろえ続けているうちに、だんだん息子のことも意識の中から消えていって、そのうちに履物を並べるのが面白くなってきたのです。外出から帰ってきても、もう無意識のうちに、「さあ、きれいに並べてやるぞ」と楽しみにしている自分に気がつきました。更に続けていると、そのうちに、そういう心の動きさえも忘れてしまい、ただただ履物を並べるのが趣味というか、楽しみになってしまったのです。それで、はっと気がついたら、なんと息子がちゃんと履物を並べて脱ぐようになっておりました。孔子の言葉に「これを楽しむ者に如かず」というのがありますが。私や家内が履物並べを楽しみ始めたとき、息子はちゃんとついてきたわけです。私事で恐縮ですが、ここに教育の大事なポイントの一つがあると思います。口先だけで人に、「こら、やらんかい」といやいやいうだけでは、誰もついてきません。じぶんが楽しんでこそ、人もついてくるんだという人生観を、私は履物並べから学んだ次第です。と述べられている。
“しつけの三カ条”が自然にできるようになれば、人情の機微を少しはわかるのではないかと思います。
松下幸之助氏の「指導者の条件」PHP研究所発行の中で、「人情の機微を知る」(P170~171)について指導者の心得を述べられている。
「人情の機微を知る」指導者は人情の機微に即して事を行なわなくてはならない。
“衣食足りて礼節を知る”ということをよくいうが、もともとは、“ 倉廩 そうりん 実 み ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る”というのだそうで、中国古代の斉の国の大政治家管仲のことばだという。管仲は、道義道徳が衰えれば国は滅びるといってこれを大いに重視したが、同時にそれは、倉に穀物が満ち、人民が衣食に事欠かないという、物の面での豊さに裏づけられなくてはいけないということを考えたわけである。そこで、道義道徳を奨励する一方、経済を盛んにし、国を富ませることをはかった。その結果、一小国であった斉をして、天下の最強国にまで発展せしめたのである。管仲という人は、結局、人間というものをよく把握していたというか、いわゆる人情の機微に通じていたのだと思う。だから、こういうことをいったり、行ったりできたのだろう。実際彼は、「政令というものは民心にそって下さなくてはならない」といい。全ての政令をわかりやすく、実行しやすいものにしたともいわれている。人間の心というものは、なかなか理屈では割り切れない。理論的には。こうしたらいい、こういうことが望ましいと考えられても、人心はむしろその反対に動くということもあろう。一面まことに厄介といえば厄介だが、しかしやはり、ある種の方向というか、法則的なものがあるとも考えられる。そうしたものをある程度体得できるということが、人情の機微を知ることになるのだと思う。そのような人情の機微を知ることなしに、理論や理屈だけで事をなそうとすれば、人びとの反発を受けたろして、なかなかうまくいかず、労多くして功少なしという結果に終わりがちである。また、そうしたことを無理に力を持ってやろうとすれば、人びとを苦しめたりすることにもなると思う。古来、すぐれた政治家、すぐれた指導者といわれる人の業績を見ると、やはりみなこうした人情の機微というものをよく把握し、それに即してものごとを行っているようである。人情の機微を知るためには、やはり何といっても、いろいろな体験を通じて、多くの人びとと実際にふれあうことである。その意味で、指導者になる人は、できるかぎり実社会の体験を多く有している人が望ましい。そうした体験に立ちつつ、つねに素直な目で人間というものを見、その心の動きを知るということが大切だと思う。
以上の言葉で、木下藤吉郎を思い出すのは私だけでしょうか?
もう一つの松下幸之助氏の「リーダーになる人に知っておいてほしいこと」PHPで、松下幸之助氏は、人情の機微は教えることができない。学ぶのでなく自分で悟るしかない。しかしその人情の機微こそが、人生の根底であり、いちばん大事なことである。人情の機微を知ることは非常に大事やけど、いちばんむつかしいことやな。人情の機微を知っていたら、天下でも取れるわ。しかし、それを知っている人というのは少ないな、自分でいろいろ当って砕けたりしてやっていくうちに、自然につかめるものだから、自分で悟ってつかまないとしかたがない。学ぶべきものではなくて、それは悟るべきものである。だから教えるというても、教える道がない。それにそれぞれがもっている持ち味から出てくるものやな。しかし、原則としては、思いやりというものが必要や。人に対する思いやりというものがわかっていないといかんな。大臣に会ったときにはどういうふうに接するとか、自動車の運転手さんに対してはどういう対応をするとか、そういう思いやりを常にもっていないといけない。そういうところに人情の機微があるのではないか。人情の機微がわかったら、思うとおりのことができるわ。行く手に障害も起こってこない。人情の機微がわからないから障害が起こってくるわけや。察しのいい人というのがいるけれど、特に察しのいい人は、やはり人情の機微がわかっている。女性に魅力を感じてもらえないような人はあかんで。君はどうや。まあ見込みがあるな。人情の機微について、君がそう考えただけでも偉いと思う。やっぱり多くの人に接して、いろいろなことをやっれ初めてわかるものやろうな。サービスという言葉があるわな。サービスというのは、言い換えれば、仏教でいう慈悲の心や。慈悲心がなかったらあかん。サービスは慈悲心から出てくる。そういう慈悲心を欠いたサービスというものは、つけ足しや。ほんとうに人を動かすことはできない。いくら人情の機微を理解して、それを実行しているようでも、ほんとうにそれが生きてくるには、その奥に慈悲心がないとあかんな。それが根底やと思う。しかし君が言うように、人情の機微を知るのは人生でいちばん大事なことや。事をなさんとする者の要諦はそこにある。だから君はそういうことをつかまないといかんわけや。(1983年2月3日)
もう一つの松下幸之助の「人を活かす12の鉄則」PHPにも「人間の心の動きをつかむ」に「人情の機微をわきまえる」の中にも述べられています。
また、「二十四の瞳」の作者 壺井 栄氏は有名である。彼女のもう一つの作品「あしたの風」で「今日をせい一ぱい生きれば、それによって明日生きる道は開ける」という言葉で、しみじみと心温まる物語で人情の機微を感じるのである。
浪曲の世界にいきてきた私であるが、昭和30年代の中学・高校・大学時代は「義理と人情」の世界で、まさにGNN(義理・人情・浪花節)の状態で、麻雀・ダンスパーテイ・クラブ活動・ストリップ劇場は当たり前、「仁義なき戦い」で呉・広島の街で生きてきた。その後、高倉 健・菅原 文太・渥美 清・ 藤山寛美(芸は水に文字を書くようなもの、書き続けないと見えない」)らの映画・テレビをみて、義理・人情を深く感じたのである。同時に、人情の機微を深く感じたのものである。
高倉健の「唐獅子牡丹」作詞:水城一狼 矢野 亮 作曲:水城一狼
義理と人情を 秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界 幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中で吠えてる 唐獅子牡丹の歌詞を自然に口ずさんで歌っているのである。「幸福の黄色いハンカチ」(しあわせのきいろいハンカチ)は、1981年にロサンゼルスの映画館で観ている。当時ダイアナの結婚式が挙行されていた。遠くで見る映画も非常に感銘深いものだった。医者になって、呉の病院では、「仁義なき戦い」の作者である、親分・美濃幸三氏の治療をさせていただき、昔話をしながら、「何か困ったことがあったら言って下さい」と言われた記憶がある。
坂本冬美の「男の艶歌」で、作詞;なかにし礼 作曲;猪俣公章で、
天にもらった、財宝の山を、棄てて悔いない 友がいる。時代おくれと
笑われようと、義理と人情と浪花節 それが男の 花絆
の歌詞も心に響くのです。
好文学園女子高等学校の延原観司校長は、「教育は、義理と人情と浪花節」であると、教育は、真剣勝負です。日々是決戦、日々是勉強、日々是好日であると。
また、「人生の師選び三条件」として、
師を尊敬し、謙虚に、礼儀正しく、感謝の念を忘れない、素直に聞き、忠実に実行する。
少し進歩してくると、「師を見るな。師の見ているものを見よ。」と師の機微にふれてくる。つまり、教えてくれる人が、個々の個性と共鳴する人にいかに出会えるかが大切だと思います。
孔子は、「人生で一番大切なことは、“恕”ではないかな」と言った。色々大切なものがある中で、選んだ末の言葉だ。思いやりがある人は、他人の立場に立つことができる人だ。他人の痛みや、苦しみ、喜びを自分のことのように感じることができる人。他人の立場に立つことができる人は、自分肯定ができる人だ。
自己肯定とは・・・
それが、自己肯定への早道である。人生で一番大切な、「思いやりの心」を育てたい。
後藤田正晴氏は、初めて挑戦した国政選挙で落選した時に、政治家にとって最も必要なことに「政治家を志した者にとって、最も大事なことは、人情の機微が分かるような自分自身を修練することだと思う」と述べている。
田中角栄氏は小学校卒の元首相である。彼の名言に
「第一は、できるだけ敵をへらしていくこと。 世の中は、嫉妬とソロバンだ。インテリほどヤキモチが多い。人は自らの損得で動くということだ。
第二は、自分に少しでも好意をもった広い中間層を握ること。
第三は、人間の機微、人情の機微を知ることだ」
「仕事をすれば、批判、反対があって当然、何もやらなければ、叱る声も出ない。私の人気が悪くなったら、ああ田中は仕事をしているんだと、まあ、こう思っていただきたい」
「赤坂、柳橋、新橋でも、料亭の女将で店を大きくするのはどんな奴かわかるか。仲居上がり、女中あがりだ。芸者や板場を立てて、見事に大きくする。ダメなのは芸者あがり」
「若い君が本当に思っていることを話せばよい。借り物はダメだ。百姓を侮ってはいけない。小理屈で人間は動かないことを知れ」「末ついに海になる山水も、しばし木の下をくぐるなり」
私は、中宮寺の弥勒菩薩像(伝如意輪観音=菩薩半跏像)をみると、あの崇高な微笑みというか、見ているだけで、自分の心が落ち着いてくるのである。あれこそ、人情の機微を表現していると感じるのは私だけでしょうか。
最後に、村井順氏は、「人間は社会の中で生かし生かされており、そこにありがとうの心と思いやりの心が生れる。その心のない者は社会を論ずる資格もないし、自分を主張する資格もない」と述べられている。けだし名言である。
参考文献
森 信三:修身教授録・致知出版社
寺田清一:森信三語録 心魂にひびく言葉・致知出版社
村井 順:ありがとうの心・善本社
松下幸之助:指導者の条件・PHP
松下幸之助:物の見方考え方・PHP
松下幸之助:道をひらく・PHP
松下幸之助:続・道をひらく・PHP
松下幸之助:リーダーになる人に知っておいてほしいこと:PHP
松下幸之助:人間を考える
邦友クリニック 屋敷建夫
九患
志有るも時無し。
時有るも友無し。
友有るも志無し。
志有るもその師に遇わず。
師に遭うも覚らず。
師に覚るも勤めず。
勤むるも道を守らず。
或は志固からず。
固きも久しうする能わず。
―道家―真誥(しんこう)
九患の読み方は、「キュウカン」とも、「わずらい」とも言われている。道を学ぶ上での九つの悩み。
この言葉に、安岡正篤氏は、自ら慚憤{ざんぶん(はじて怒ること)}を覚えるではないかと述べられている。
志が有っても時間が無く。時間が有っても友達がいない。友達が有っても志もなく。志が有っても、師に出合わない。師に会ってもその価値に気づかず学ばない。学んでも実行しない。実行してもいい加減。あるいは志が定まらない。志が定まっても長く持続できない。こういう姿勢では人生にいかなる実を結べないことは自明だろう。
どうすれば、我づくりはできるのか。その要訣を、安岡正篤氏が、示しておられる。「日常の出来事に一喜一憂せず、現在の仕事を自分の生涯の仕事として打ち込むこと。そして、それを信念にまで高めなければ、自己の確立はあり得ない」「人間はできるだけ早くから、良き師、良き友を持ち、良き書を読み、ひそかに自らを省み、自らを修めることである。人生は心がけと努力次第である」と。
渡部昇一氏の言葉は、「人は心底尊敬した人物から知らず知らずのうちに多くのものを学ぶ。学生でも偉い先生を心底から尊敬している弟子は、器量がどんどん大きくなる。しかし、先生を批判したり表面的に奉(たてまつ)るだけになると成長が止まる」と、師と弟子の関係を説いて、これ以上の言葉はあるまい。
「師は鐘の如(ごと)し。大鳴り小鳴りはその撞(つ)く人の力に由るまでなり」と古言(出典不明)にいう。多くの師に出会い、大きく撞いたのが渡部氏の人生だった。
師匠の偉大さの大小ではなく、学ぼうとする弟子の姿勢が重要ということ。小さく撞けば小さい音が返ってくる。大きく撞けば大きな響きが返ってくる。
これと通じる話を空海もしています。『教本は本より差(たが)うことなし。牛と蛇との飲水(おんすい)の如し。牛は飲めば蘇乳(そにゅう)となり、蛇は飲めば毒莿(どくし)となる』
教本とは教えのことで、それは最初から真理が記されているが、それを誰が活かすかによって、役に立つものになることもあれば、毒になることもあると。したがってやはり受け手の力量や姿勢によるということが説かれています。
学ぼうとする弟子の姿勢が大切であるといえます。
ひろ さちや氏は、次のように述べられています。
人間にとって大事な仕事は、「老いること、病気をすること、そして死ぬことだ」と私は考えています。この三つは誰もがしている事だし、しなければならないことです。老いることは決して、年をとってからの問題じゃないんですね。赤ん坊として生まれ落ちた瞬間から、人間は一日一日、刻一刻と老いていくんです。だったら老いる仕事を一所懸命やればいいじゃないですか。病気を摺ることだって大事な仕事です。その思いがあったら、病気になったらなったで、病人として立派に生きて行けるんです、癌を宣告されたって、慌てふためくなんてことはありません。「こいつは大仕事だぞ。めいいっぱい癌と取り組まなきゃな」という受けとめ方ができます。そして死ぬこと、これはとびっきりの大仕事です。と述べられている。
学ぼうとする各自の姿勢が重要ということになるようです。
私は、昭和50年8月に、黒住先生より「君の人生だから」と広島記念病院へ転勤をすすめられた。広島記念病院では、当時の内科医長 結城 庸先生より、医学全般はもちろん、かけがえのない自分・生き生き人生について、必死になって御教授していただきました。
「自分を肯定し、過去を悔まず、人を責めず、日常の活動と人間関係に感謝を」の言葉のもとに、
1.よき師に巡り合うこと。(医師・俳句・絵画の師匠等)
2.独学(自分が自分に与える教育)の意欲
3.人生(生老病死)に対する覚悟(人生の肯定)
等について、御教授していただいた事等、私の人生に「師は鐘の如(ごと)し。大鳴り小鳴りはその撞(つ)く人の力に由るまでなり」という心境に、なって行きたいと思うのは、私の自己満足であろうか。
文献:
1)「偉人たちの一日一言」~致知出版社が贈る人生を養う言葉~ 発行 (株)致知出版社
2)ずぼら人生論 ひろさちや 三笠書房
(文責 屋敷建夫) 邦友クリニック TEL 0823-23-2111 FAX 0823-23-2113